ボクたちの選択 7


川野辺由香が、幼馴染の少年の部屋に入ったのは、小学校の5年生以来だったかもしれない。
確かあの時は、圭介の誕生日会をするというので、友達といっしょに彼の家まで出掛けていったのだった。
小学3年生の時に引っ越してきた圭介は、まるで少女みたいな顔をしていた。
『綺麗だな』と思った数分後には、その事をネタにからかったクラスの悪ガキと取っ組み合いのケンカを始めてしまったので、
由香の中ではあっという間に『綺麗な子』から『乱暴な子』にランクダウンしたのだけれど。
そして、ちょっと猫背気味な初老のミサ子先生に言われて、彼が由香の隣の席になり、
『やだな』と思った数分後に、学校指定の教科書を持っていない彼に教科書を見せてあげるように言われ、
彼が血止めに鼻に突っ込んだティッシュを抜きながら「にこっ」と笑った時、


恋に落ちた。


長い春だな。
自分でもそう思う。
しかもあんな状況でよく恋になったものだと、そうも思う。
けれど仕方ない。
初恋というものは、いつどこで誰に対して発症するか、当の本人すらわからない突発性の不治の病気なのだから。
あれから8年。
実際、小学校3年生から高校になった今まで、ずっと一人の男の子に恋し続けるなんてのは、とても人に言えたものじゃない。
しかも初恋だ。
ものには程度というものがある。
始った恋は、終わらせなければ終わらない。


では、始らない恋は?


いつの間にか、由香は彼と一緒にいる事が自分の『普通』になってしまって、『特別な関係』というものが
どういうものかわからなくなっていた。
小学校を卒業し、中学生になり、それがまるで当然のように家から一番近い高校に進学した。
なぜなら、彼がそこを受験したから。
彼のそばにいるのが当たり前で、彼から離れる事が不自然な関係。
友達に言わせると、それはとっても不健康なのだそうだ。
一人の男に“いれあげる”なんてのは、女として“終わってる”らしい。
余計な御世話だと、由香は思う。
東京ではファッションのように彼氏を変えるのが普通みたいに言うけれど、たぶんきっとこのスピードが自分には合ってるんじゃないか?
と思うのだ。
けれど、そうあるのが当たり前過ぎて、『特別な関係』へ発展しない『始っていない恋』は、どうすれば本当に始るのだろう。
または、どうすれば終わるのだろうか?

幸か不幸か、由香が好きになった少年は、同世代の女の子から「可愛い」と言われても「カッコイイ」と言われるような
少年ではなかったし、そういう事にはまったくの“ニブチン”だったので、本人が気付かないうちに散っていった恋の花もいくつかあった。
しかも、彼は性的に未発達なのか、こんな近くに食べ頃の(!)異性がいるのに、ちっとも、まったく、
これっぽっちも手を出してこようとはしない。
こっちはいつでも(キスまでなら)準備おっけーだというのに。
いくら童顔の幼児体型で、中学生か、下手をしたら小学生にも見られかねない由香だって、同じ年頃の女の子と一緒に行動していれば、
おのずと“あっち”の知識は雪国の降雪のように確実に積み重なってゆく。
女3人寄って話す事と言えば「彼氏」と「恋」と「化粧」と「オシャレ」ばっかりで、さすがの由香も中学を卒業する頃にはもう
「夢のように素晴らしいとろけるようなはじめての時」の事で、頭はぱんぱんになっていた。
精一杯努力して、毎日女を磨いたりもしているのだ。
童顔で幼児体型だって、髪はさらさらだし肌だってツヤツヤのピカピカだ。
いったい、誰のために少ないお小遣いから高いシャンプーやリンスやパックや乳液やクリームや……
その他モロモロの“オンナの秘密道具”を買い求めていると思っているのか。

ところが、彼女の恋する彼は、中学の3年間はずっと陸上に打ち込んで、密かに彼に恋してた下級生なんてこれっぽっちも
相手にしてなかったし、むしろ恋愛とかエッチとか、そういうものから自分を遠ざけようとする修験者(しゅげんしゃ)のような
態度を取り続けていた。
由香も同じ陸上部のマネージャーをしながらずっと彼をそばで見ていて、彼自身は「ただの幼馴染み」だと言うものの、
周囲からはなかば公然と「できてる」と思われていたため、彼女自身、どこか安心していたのだろう。
「彼のそばにいるのは私よ」なんていう驕りがあったのは否定しない。
彼が他の女の子と仲良くしても、特に嫉妬したりなんてしなかったのだから。
けれど、彼が恋とか女とかに「興味無い」という態度を取る限り、まさか由香自身が『実力行使』に出るわけもいかなかったし、
実際のところ、彼女にもそんな度胸も覚悟も無かったから、恋が始るも何も、その兆しさえ顔を出していなかったのである。


そして、高校2年の晩春。
3日前。
彼が倒れた。
ここまでひどくなったのは、小学3年生以来だという。

もう、待っているなんてのは、やめよう。

そう思った。
想いを伝えずに後悔するのなんて、嫌だった。
彼もきっと自分の事は憎からず想ってくれているはずだ。
でなければ8年も一緒にいてくれるはずが無い。

だから、昼休みに少年自身からケータイに連絡が入った時、由香は心に決めたのだった。
今日、ちゃんと言おう。

ずっと好きだったって、言おう。
ずっとずっと、けーちゃんだけを見てきたのだと、そう言おう。
そう、心に決めたのだった。

なのに。


由香は、圭介の部屋にぺたりと座り込んで、ぽかんと口を開けたまま、さらさらとした髪の少年を見ていた。
ちなみに、小学校の時の彼の部屋は、バスケット選手のポスターやアニメ映画のポスターや、
プラモデルとかなんだかわかんない透明なプラスチック箱に入った怪物のオモチャとかがある、歳相応に子供っぽい部屋だった。
そして、今日、6年ぶりに入った高校生の彼の部屋は、あの頃とほとんど変わっていなかった。
小学校の時と同じ勉強机と、ちょっと大きな物になったシングルベッド、サッカー選手のポスターや、漫画の本や絵画の本、
それに絵の道具とイーゼルとスケッチブック…陸上(競技)で獲った賞のトロフィーとかが全然見当たらなかったのは
ちょっと哀しかったけれど、どこも彼らしいモノと匂いがした。
だから、もしかしたら初めてえっちする時なんかは、この部屋でするのかな?などと思ってしまい一人赤面した由香は、
『壁紙がもっと可愛いのだったらいいのに』
なんて妄想を暴走させてしまったりもしたものだ。
だからこそ、圭介と同じく8年来の幼馴染みであるの健司と一緒に、数年振りに彼の部屋を訪れて、開口一番に彼が

「ごめん、オレ、女になっちゃった」

と言った時、由香は
『神様、私は前世で何か犯しがたい許されざる罪でも犯しましたか?』
と、普段は別段信仰してもいない一神教の神様に、心のなかで涙ながらに問いかけてみたりも……したのであった。


「なあ健司、『仮性半陰陽』って知ってるか?」
固まったまま動かなくなってしまった由香の目の前に、ひらひらと手を振ってみせている牧歌的雰囲気の青年へ、
圭介は世界の秘密を問いただすみたいに神妙な口調で聞いた。

ベッドの上。
新しいパジャマに着替えて、ついでにシーツも毛布も換えてある。
掃除もちゃんとしたらしく、あれだけ匂っていた汗と小水の匂いも、今ではすっかり消えていた。
「かせーはんいんよー?」
なんとなく、いつもよりもぼんやりとした口調で健司が問う。
目の前にいるのが親友だと、まだ信じていないような顔だ。
確かに、髪も肩まで長くさらさらとして、とても男には見えない。
それでも、基本的な印象は変わっていないというのに。

「ん〜…つまりだな、遺伝的には女なんだけど、外見は男で…つまりその…男に見えてたけど実は女だったってぇ事で…」
「性同一性障害…みたいなもの?」
「…ムツカシイ事知ってんな?……けど、ちょっと違うかな?」
最初に言った圭介の言葉を、たぶん全く信じずきれいに素っ飛ばした健司に、彼はゆっくりと口を開いた。
「なんだ…その……オレの場合、なんか『女性仮性半陰陽』…ってーの、なんだと」
「……え?」
健司の顔が半笑いになり、圭介の目がこれ以上無いくらい真面目だと知って、そこで固まった。
あたまのネジが2、3本ふっとんだような顔になっていた。
「誰が?」
「オレが」
「なに?」
「『女性仮性半陰陽』」
健司は、まだ固まったままの由香を見て、それから圭介を見て、それから床をじっと見つめてからおもむろに、
「誰が?」
「…何度も繰り返すなバカ!オレをおちょくってんのか!?」
「うそだぁ…」
「いや、マジ。ホント」
「だって、俺、小学校の時、けーちゃんとおしっこの飛ばしっこだってしたんだよ?
 中学の修学旅行の時だってお風呂でけーちゃんのチンチン見たし、水泳の授業の時だって」
「だーーーーーーーーーーーー!!う、うるさいなっ!!こうなっちまったもんは仕方ねーだろうが!!
 恥ずかしいこといつまでも言ってんなよなっ!!」
右手をブンブンと振って喚く圭介に、健司は黙り込んで疑わしそうな目を向けた。
まるで信じていない。
今日は何の冗談?
そんな顔だ。
それは誰にメイクしてもらったの?
そんな事を言い出しそうだった。

圭介は小さく溜息をつくとベッドから降り、健司の前にしゃがみ込んだ。
「ちょっとオマエ、ココ触ってみろ」
そう言って、脚を開く。
この時の健司の顔は見物(みもの)だった。
“ふえ?”と顔が歪み、次いで、なんだか気の毒な人を見るみたいな目で圭介を見た。
「けーちゃん…そっちのシュミがあったの?」
「ちがわいっ!グダグダ話してても進まねーだろ!?こ、こーゆーのはな、実際に確かめた方が早いんだよ!!」
圭介は、しのごの言わせず健司の左手を取り、強引に自分の股間に当てた。
“うわぁ…”とした顔をしていた健司だったが、
「…ない」
健司は不意に呟くと、突然圭介の股間をまさぐり始める。
「ばっ!ちょっ!やめろばかっ!!」
健司の手を撥ね退け、逃げるように慌ててベッドに飛び乗る。
健司はその圭介を追ってベッドに膝をついて身を乗り出した。
第三者が見れば、なんだかベッドの上のいたいけな美少女を、今にも襲おうとしているようだった。
…いや、そのものに見えた。
「無いよ!?ねぇ!!けーちゃん無いよ!?チンチン、無いよ!?無い!チンチン、無い!!」
「チンチン、チンチン、言うなバカ!!恥ずかしいヤツだな!?見ろ!由香のやつが真っ白になってんじゃねーか!」
健司が由香の方を見ると、いままさに、彼女の体がゆっくりと後方に倒れていくところだった。


圭介は、玄関から出てきた2人が窓を見上げると、小さく手を振ってやった。
太陽はすっかり地平に沈み、夕焼けの残照がわずかに残るばかり。
町の家々の明かりが、その中で笑いさざめく人々の笑みを思い浮かばせる。
『大丈夫かな…由香のやつ…』
2階に上がって来た時、何か決心したような顔をしていたと思ったら、急に赤くなって黙り込み、
そして圭介の告白で固まって、健司の叫びでぶっ倒れた。
なんとか健司と2人で解放したけれど、まだふらふらしていたから、ひょっとしたら明日は学校を休むかもしれない。

健司は……………
『あれから、オレと一度も目を合わせなかったな……』
無理も無い。
今日まで男だと信じていた親友が、突然「オンナだった」と言われたのだから。
自分だって、すごくショックだったのだ。
今だってショックから抜け出せているとは言いがたい。
けれど、ちゃんとごまかせただろうか?
母親に言われたとおり、自分は『女性仮性半陰陽』なのだと、彼らに信じさせる事が出来ただろうか?
元々は遺伝的に女だったのだと。
毎年あった肉体の変調は、遺伝的な体質と肉体の“ズレ”が引き起こしていたのだと。
『信じられるワケねーか…』
冷静になればわかるはずだ。
たかが3日かそこらで、髪が肩まで伸びるはずはないと。
たかが3日かそこらで骨格そのものが華奢になり、骨盤までもが張った形に変化するはずは、ないのだと。
けれど、今は、こうでも言っておくしかない。
本当の事など、とても言えやしない。
それくらい、母が話してくれた事は、圭介にとって衝撃的な事だった。
今までの、彼の17年間の生活そのものが、根底からひっくり返るくらいに。




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